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2024年12月30日2025年1月18日
若手作家として注目を集めている宮城麻里江さんはいったいどのような方なのか、ご存知でしょうか。
スタイリッシュで都会的な着物を作る、南風原花織・琉球絣作家として幅広い年齢層の方から人気です。
この記事では、宮城麻里江さんの経歴やこだわり、沖縄県那覇市に隣接した南風原町にあるアトリエ南風原花織工房について解説します。
アトリエのある南風原町は沖縄県で最も人口が多い町で、首里城から近く、琉球時代から王朝に貢納布を献上していたことから「織物の産地」と呼ばれています。
宮城麻里江さんといえば琉球絣ですが、南風原花織とどのような関係があるのか、琉球絣と南風原花織についても解説するので、参考にしてみてください。
目次
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若手染色作家の宮城麻里江さんとは
宮城麻里江さんの名前は聞いたことがあっても、詳しい経歴を知らない方は多いのではないでしょうか。
ここでは、若手染色作家として人気のある宮城麻里江さんの経歴を解説します。
また、宮城麻里江さんが立ち上げたブランド「MARIKASI」、南風原町にあるアトリエ「TEORI WORKS OKINAWA」についても解説していきます。
宮城麻里江さんの経歴
奄美大島出身の母親をもつ宮城麻里江さんは1982年に鹿児島に生まれ、沖縄本島で幼少期を過ごしました。
中学時代からファッションに興味があり、県内のデザイン科がある高校に進学してデザインの基礎を学びます。
高校卒業後はより深く服飾デザインを学ぶため、大阪文化服装学院ファッションクリエイター学科へ進みました。
卒業後は東京のアパレルメーカーにて勤務しますが、母親の病気が発覚し、看病のため沖縄に戻ります。
結婚後は県外で働いていましたが沖縄に戻り、義母が南風原織作家の宮城竹子さんで工房を営んでいることを知り、「やってみる?」といわれ修行を始めました。
その後琉球絣組合で絣括りを、沖縄県工芸振興センターでは草木染めを本格的に学びます。
義母の工房でも織物制作をしながら洋装ブランド「MARIKASI」を立ち上げました。
さらに2020年には独立し、アトリエ「TEORI WORKS OKINAWA」を設立しています。
南風原で生まれたブランド「MARIKASI(マリカシ)」
「MARIKASI」は、宮城麻里江さんが義母の工房で織物制作をしながら、現代のライフスタイルに合わせて立ち上げた洋装ブランドです。
専門学校で学んだことやアパレル会社で働いた経験をもとに、ジャケットやワンピース、ストールなどを作っています。
伝統的な染織物と洋装を組み合わせ、伝統に新しい風を起こしました。
アトリエ「TEORI WORKS OKINAWA」
アトリエ「TEORI WORKS OKINAWA」は、義母の工房で勤めている織子さんとともに、新たな取り組みを始めるために設立したアトリエです。
南風原町の閑静な住宅街にある2階建ての民家をアレンジした素敵なアトリエです。
1階は30〜60代の織り手さんがいる、機場と琉球絣の作業スペースになっていて、高機は4台がフル稼働しています。
2階は宮城麻里江さんのパーソナルスペースと、作品ファイルや資料がある作業スペースです。
糸の染め場や、染めた糸をすぐ干せるバルコニーが隣接しています。
アトリエでの宮城麻里江さんの役割は、図案の制作・糸の染色と絣括り・整経です。
それ以外の作業は他のスタッフと連携を取りながら、チームで創作活動をしています。
宮城麻里江さんのこだわり
宮城麻里江さんがおこなうのは、南風原の技法を使った「真芯」という絣染めの技法です。
絣糸を染める段階で、糸をずらして防染括りをし、染色したあとにずらした糸をそろえると数種類の柄が出るという仕組みです。
使用する糸はすべてアトリエで染められていて、宮城麻里江さんのこだわりがつまっています。
織物は、緯糸(よこいと)と経糸(たていと)の組み合わせが重要です。
糸として美しくても組み合わせたときにどちらかの色がくすんでしまう場合があります。
宮城麻里江さんは常に織り上がりをイメージし、草木染めや化学染料など、そのときどきで染色方法を変えています。
糸を染める際は、ベースに宮城麻里江さん秘伝の色を入れており、そこからうまれる独特な色彩が宮城麻里江さんの特徴です。
琉球絣と南風原花織
沖縄では木綿をはじめ上布、紬や花織などさまざまな織物があり、どのような織物にも絣柄が織り込まれていて、その絣模様はすべて「琉球絣」といわれています。
狭義では、南風原町で作られる絣の織物のことです。
沖縄県南部の南風原町を中心に生産されていて、南風原町は「かすりの里」として町全体で琉球絣を盛り上げています。
南風原町では、絣の図案の作成から糸づくり・染色・機織り・湯のし・最終的な検査まで、多くの町の人が分業体制で関わっています。
最初から最後まで一人で作り上げる場合と異なり、分業で1つの織物を作り上げるため、高品質なものをキープできているのでしょう。
琉球絣とは
琉球絣の歴史は古く、日本全国の絣の原点ともいわれています。
インドが発祥といわれている絣が、東南アジアから琉球に伝わって日本各地に広がりました。
ここでは琉球絣の技法と特徴、できるまでの工程を解説します。
アジアから伝わった技法
紀元前3〜4世紀頃のインドで作られるようになった絣は、その後東南アジアを経て15〜16世紀に琉球に伝わり、飛躍的に発展を遂げました。
琉球から薩摩・久留米など日本各地に伝わり、今も作られています。
今は絹絣が大部分を占めていますが、当初は木綿絣でした。
絣は琉球時代に素晴らしい織物として、王族や上級士族のための贈答品や貿易品として作られていました。
その後、薩摩藩の侵略により厳しい管理下で貢布として織られ続け、第二次世界大戦では激戦区となり、工場は閉鎖に追い込まれてしまいます。
しかし、戦後には研究や調査のお陰で見事復興を遂げ、1983年には国の伝統的工芸品に指定されました。
琉球絣の特徴と魅力
琉球絣の特徴は、あらかじめ染めた糸を織りあげて幾何学模様を表現している点です。
柄の種類は500〜600あるといわれ、伝統ある図案は琉球時代から伝わる御絵図帳(えみずちょう)に残されています。
独自の柄は琉球の生活や自然に関わるものを図案化したもので、名前は方言で呼ばれているため、名前だけでは柄の内容がわからない方も多いでしょう。
例えば、ミディ(水)・トゥイグヮー(小鳥)・クム(雲)・イン・ヌ・フィサー(犬の足跡)・ビックー(亀甲)・トーニー(豚のえさ箱)などです。
多彩な柄と色、糸の素材、そして織り方を組み合わせているため、バリエーションが豊富で、世界に1つだけの織物ができます。
また、分業体制で図案・絣のくくり・染色・織り・仕上げとそれぞれの専門家が効率よく作り上げているため、高品質かつ安価な織物ができている点も特徴です。
琉球絣ができるまで
琉球絣ができるまでには16の工程があり、すべて手作業のため、織り上がるまでにかなりの手間と時間がかかります。
まずは図柄を決め、糸の段階で配置の計算をしなければなりません。
図柄を決めたあとは、染めたくない部分が染まらないよう、糸で縛って防染をします。
染料は沖縄県で採取された植物染料のほか、現在は化学染料も使われています。
染料となる樹木は、フクギの樹皮・クチナシの果実・センダンの葉・アカギの樹皮などです。
フクギの樹皮は黄色に、アカギの樹皮は赤茶色に染まります。
染色後は糊付けして伸ばし、整え、防染のために縛っておいた糸を解き、柄どおりに柄を合わせて固定し、織り上げます。
織物工房が集まっている南風原町
琉球絣をはじめ、数々の織物工房が集まっているのが、沖縄県那覇市に隣接している南風原町です。
かすりの里として町全体で琉球絣を盛り上げていて、工房や製作所に行くツアーなども催行されています。
町を訪れると「シャーラトントン」と機織りの音が響き、「かすりロード」と呼ばれるエリアは、糸や反物を野外で広げた姿が見られる散策コースとなっています。
琉球かすり会館では美しい織物を見られるほか、コースターなどを作る貴重な織物体験も可能です。
また、琉球絣を使ったネクタイや草履、バックなどが販売されています。
どれも手作りのため、模様が同じでも絣具合などが同じものは1つもなく、世界に1つだけの貴重なものです。
南風原花織の歴史
南風原花織は100年以上の歴史ある伝統の織物です。
東南アジア由来の琉球絣に沖縄県各地で織られていた花織の技術が融合し、南風原花織として独自の織物が誕生しました。
琉球王朝時代には、王府に貢納布として納められていたといわれています。
花織の技法は母から娘へ伝承という形で受け継がれていましたが、大正時代には南風原村女子立補修学校が設立され、多くの女性が技術を習得しました。
学校を卒業した女性たちがアレンジを加え、さまざまな花織を作り出すなかで、南風原花織の技法は確立されます。
戦後には一度廃れてしまいますが、生き残った人たちが貧しい中、材料をかき集めて復興のために尽力、職人の努力により見事復興を遂げました。
2017年には、国の伝統工芸品に指定されています。
今でも織り方や色合いなどが改良されていて、南風原花織は進化を続けています。
南風原花織の種類
南風原花織は、複雑に織り上げた糸で図柄を浮き上がらせる技法が特徴的な織物です。
リバーシブルで利用できる、両面浮花織で織られたものも多く見られます。
一見刺繍と見まちがえてしまうほどの緻密な浮き柄で、素朴かつ上品なツヤがあり、しなやかな質感が魅力です。
ここでは南風原花織の種類、花絽織・道屯織・ヤシラミ花織・喜屋武八枚・照屋八枚を解説します。
花絽織
花絽織は、首里織りの花倉織を南風原地方で織った物で、他の地域では生み出されなかった首里織の最高技法で織られた幻の織物といわれています。
絽織と両面浮花織を組み合わせ、使用される糸はとても細く、張りがあり涼しげです。
口伝での技術伝達方法だったため、戦争前からの織り手が亡くなった後は一時期途絶えていました。
しかし、大城志津子など、花倉織の研究と復元に注力した人々のお陰で見事復興を果たしています。
道屯(ロートン)織り
道屯織りは裏表とも柄が出る、経糸が浮く織り方が特徴の織物で、九寸名古屋帯に多く使われています。
紋織りの一種であり、段を浮かせた立体感のある生地感が魅力です。
どの糸をどの順序で幾段織るのかなど、厳密な計算による図案が必要な繊細な織り方になります。
17世紀頃に中国から伝わった織物といわれていて、王朝時代には王家・貴族の衣裳に使われていました。
ヤシラミ花織り
ヤシラミ花織は平織でヤスリの目のように細かい縞柄のため、「ヤシラミ」と呼ばれています。
1本置きに別々の糸を織り込むことで網代状に織りあげています。
おしゃれ着として着られていますが生産数は少なく、今では着物も帯もめったに見られない貴重な織物です。
喜屋武八枚と照屋八枚
喜屋武八枚と照屋八枚は、明治時代の中頃に喜屋武村にいた美しい姉妹が生み出した、独自の技法による織物です。
姉妹は母親から織物を習い、新しい技法を熱心に研究していました。
2人の生み出した技法は、綜絖を八枚使用する手間のかかる高度なもので、市場で人気を博したといわれています。
喜屋武村に嫁いだ妹の織物は「喜屋武八枚」、照屋に嫁いだ姉の織物は「照屋八枚」と呼ばれています。
戦後に織手がいなくなってしまい一時は途絶えてしまいますが、2000年に地元の有志たちによって復元され、現在も織られています。
南風原花織の着こなし方
南風原花織は、本来なら普段着の着物ですが、モダンな雰囲気があるためフォーマルな場からカジュアルな場まで幅広く着こなせます。
特に宮城麻里江さんの織物は柄も少なめで落ち着いた色合いが多いため、都会的でスタイリッシュな印象を与えてくれます。
南風原花織は刺繍のように見えて、角度によってはツヤがあるように見えるためちょっとしたお出かけや観劇にも着ていける優れものです。
シンプルなため、合わせる帯や小物でガラっと雰囲気が変わります。
長く着ていても楽しく、幅広く着用できるので1枚あれば重宝するでしょう。
まとめ
琉球絣・南風原花織の染色作家である宮城麻里江さんは、義母の工房で南風原織に触れたのをきっかけに、伝統的な染織物と洋装を組み合わせて新しい風を起こしました。
沖縄県の南に位置する南風原町にある素敵なアトリエでは、スタッフと協力しながら琉球絣や南風原花織の伝統を維持しつつ、自由な表現で作品を作り上げています。
琉球絣も南風原花織も、琉球から伝わる長い歴史のある織物です。
南風原町は「かすりの里」と呼ばれていて、宮城麻里江さんのアトリエを始めとした、琉球絣などさまざまな織物工房が集まっています。
南風原花織は、モダンな雰囲気でフォーマルな場からカジュアルな場まで幅広く着られるため、一枚持っていると重宝します。
特に宮城麻里江さんの作品は、伝統を感じられつつもスタイリッシュで、年齢を問わず着こなせるでしょう。
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